日本で、女性として生きていくということ 2
- Naomi Iida
- 2017年10月1日
- 読了時間: 2分
私の生まれた年の3年後が、このベビーブーム最大の人口となります。
昭和48年生まれの学齢。
今となっては、どうやって、この人数の子供たちを捌いたのだろう、と
途方もない競争率の中で、育ちました。
我々の親も、まだ多産時代でしたから(ベビーブーマーの方もいたでしょう)
沢山の子供が、切磋琢磨していくのは、見慣れた光景だったのかもしれません。
私の母は、まだ当時の女性には少数派で、四大を卒業し、父と結婚するまでは、国家公務員として働いていました。
しかし、民間企業で働く父との結婚が決まると、当時は社宅のある民間企業でしたから、
共働きでは、社宅に入居できない、と、随分悩んだそうです。民間企業の社員の妻たるや、
モーレツ社員を支える姿が完璧なわけで、夫の出世のためには、自分が、キャリアの階段からは、降りるしかないのかな、と思ったといっておりました。
同僚は、公務員同士での結婚が多く、その場合は、どちらかが辞める必要はなかったといいます。
母は、結局、仕事を一度休む(つもりだった)、そして、結婚、という道を選びました。
この決断でも、公務員は一浪したら不利だ、と言われていた時期に、重大な決断だったと、私は思います。
当時は、(当時も?) どんな男性と結婚するか、で人生が全く異なることとなる結婚で、
女性はいかに、優位性を多く持つ男性と結婚できるか、ということを中心に考えていたのではないでしょうか。今より、女性が幸せになる選択肢は、限られていました。
ご両親も、娘が幸せになれる相手を夢中で探していた時代です。
そんな時代に、キャリアと結婚と、どっちを選ぼうか、と冷静に考えた女性は、そんなに沢山はいなかったでしょう。
母の頭の片隅には、”自分の子供の時代には、社会は変わっている”という将来への期待もあったそうです。
それは1965年のこと。母は、次の世代に、自分を託す気持ちで、結婚をします。
恵まれた時代であり、境遇であったとも、思えますが、まだ戦後の時代。
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