日本で、 女性として生きていくということ 3
- Naomi Iida
- 2017年10月5日
- 読了時間: 2分
戦後のキャリアウーマンの先駆けであった母が授かった子供は、何と二人の姉妹。
自分が男に生まれていれば、と、夢想していた母ですから、運命は意地悪なものです。
きっと男の子を育てたかったのではないかと、思います。
私と二つ年下の妹。
その母の思いが以心伝心したのか、私達は男勝りな姉妹として、育ちます。
母の思考の底辺は、
”あなたたちが、社会人になるころには、女性も男性も区別はなくなっているのだから。私たちの時代とは違うのだから。”
という 前向きな希望だったことは、間違いありません。
駆けっこで、男の子より早く走り、喧嘩も、男の子に負けない私たち姉妹に、
”女の子らしくしなさい”などは一切言わずに、”それはよくやった!”と喜ぶ母でした。
当時、母の周囲は、住まいの環境の恩恵ではありましたが、やはり四大卒のお母さまたちが多かったことが、母流儀の子育てには幸運だったと思われます。
しかし、母以外のお母さま方も、皆さん、なんとか女性がプロフェッショナルとして仕事を続けることができたはずの教師だった方々でした。
一人目の子供の時には、産後すぐに復帰し、休み時間に、胸にたまったお乳を搾りながら、働きつづけたお母さまたちも、二人目を授かると、教壇に立つことを諦めたようです。
核家族化が進んでおり、都会に住む優秀な女性たちは、やむなく子供を育てる戦士となったのです。
私も子供を育てながら、仕事をしていますが、このやむを得なかった、女性達の決断、、結果は、よく理解できます。(私がどうやって、これらを乗り切ったかは、また、別にお話します)
男性は企業戦士と呼ばれましたが、私は家庭にも、戦後の高等教育を受けた女性の戦士たちがいた、と考えています。戦士というと、武者として荒ぶるようなイメージですが、確かな知識と教養を蓄えた、お母さまが、自分の社会でのキャリアを捨てて、核(各)家族の子育てに、一家の参謀として、邁進した時代であったと考えています。
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